🍳ドラマ『じゃあ、あんたが作ってみろよ』
―令和の恋愛に残る“昭和の呪い”を解く物語―

🕰 はじめに:なぜ今、このテーマが視聴者の心臓を掴むのか?
現代、私たちの生活はデジタル化し、働き方は多様化しました。しかし、恋愛や結婚といった最も親密な関係において、いまだに「無意識の性別役割意識」が、鋼鉄の鎖のように根強く残っています。
「男は外で働き、女は家を守る」――この言葉を声に出す人は減っても、その精神的な残骸は、冷蔵庫の中や食卓の上にひそかに横たわっているのです。
TBS火曜ドラマ『じゃあ、あんたが作ってみろよ』(主演:夏帆 × 竹内涼真)は、まさにこの“令和に残る昭和的価値観”を鋭く切り取った、単なるラブコメディに収まらない社会派シニカル・ラブストーリーです。笑いと共感、そして時折訪れる痛みを伴う日常の描写の中に、「私たちは本当に『対等な人間』として愛し合えているのか?」という、現代人が避けて通れない究極の問いが隠されています。
このドラマの成功は、視聴者層を問わず、「うちもそうだ」「そのセリフ、言われた(言った)ことがある」といったリアルな共感を生み出した点にあります。それは、私たちが時代の変化に対応しきれず、親密な関係性の中で価値観の「時差ボケ」を起こしていることの証左に他なりません。
🍲 「料理は女の仕事」から始まる、愛の崩壊ドミノ
物語の火種は、どこにでもある同棲カップルの日常から投下されます。
海老原勝男(竹内涼真)は、父親の背中を見て育ったがゆえに、家事や育児に対して無頓着な“ちょっと昭和な男”の典型。対する山岸鮎美(夏帆)は、献身的に尽くすことが愛だと信じ、「彼のために美味しい料理を作る」ことを自らに課してきた女性です。
そんな2人の関係が、ある晩の**“手料理をめぐる、あまりにも日常的な喧嘩”**をきっかけに、静かに、しかし決定的に崩壊していきます。
勝男:「俺のために作ってくれるのが、愛ってもんだろ?手抜きするなよ。」 鮎美:「…じゃあ、あんたが作ってみろよ。」
この一言は、単なる家事の押し付け合いではありません。それは、鮎美が長年抱えてきた「恋愛=尽くすこと」という自己犠牲的な呪縛からの解放の叫びであり、同時に、勝男が無意識に依拠してきた「男らしさ=養うこと」という幻想が揺らぎ始める、時代の断層線を映し出す決定的瞬間です。
これまで「愛情表現」としていた料理が、一転して「義務」となり、さらに「憎しみの対象」へと反転していくプロセスは、視聴者に強烈なデジャヴュ(既視感)を抱かせます。
⚖️ 悪人なき衝突:価値観のズレは、家庭教育の「継承」だった
このドラマの描写が秀逸なのは、登場人物を安易な「悪役」に仕立てていない点です。勝男も鮎美も、根っからの悪意があるわけではありません。彼らは、ただ育った環境や社会の空気から教わった価値観を、無意識に、忠実に再生しているに過ぎないのです。
- 勝男:母親が家事を一手に引き受け、父親がそれを「当然」として受け取る家庭環境で育ちました。彼にとって、女性が手料理を作ってくれるのは「家庭の温かさ」のシンボルであり、「男が外で戦う」ことへの対価だと無意識に刷り込まれています。
- 鮎美:周りの友人や社会的な風潮から、「彼氏に尽くすこと、胃袋を掴むことが幸せ」だと教えられてきました。「気が利く」「家庭的」といった言葉で承認されることが、自己肯定感に繋がっていたのです。
つまり、2人の衝突は、個人の問題ではなく、時代の変化に家庭教育が追いついていないという、現代日本の縮図です。「共働きなのに家事負担が偏る」「疲れているのに“気遣い”が愛の証とされる」など、多くのカップルが抱える言語化されないモヤモヤを、彼らは代弁してくれています。
SNS、特にX(旧Twitter)では、「あのセリフ、うちの彼(夫)も言ってた」「これを言ってくれた鮎美に涙が出た」といった共感ポストが異例の勢いで続出。ドラマが、視聴者の家庭内の「地雷原」に火をつけた形となりました。
💡 「個の時代」と「恋愛の因習」のギャップが生む、男女のすれ違い
令和は「個の時代」と呼ばれ、自己実現や多様な生き方が尊重されています。しかし、一歩恋愛関係に入ると、途端に**「性別役割」という名の重力**に引き戻される現象が起きています。
勝男が「彼女の料理がうれしい」と思う感情は、人として自然なものです。問題は、その喜びを「女の義務」や「愛のバクト(証拠)」と混同し、相手への「感謝」や「ねぎらい」を欠いてしまう点にあります。ドラマは、この**「喜び」と「義務」の危うい線引き**を、非常に繊細に、しかし容赦なく描き出します。
さらに、現代的な対比として、デジタル時代の男女ギャップも描かれています。鮎美はSNS世代であり、「自分の幸せや頑張りを発信し、評価される」ことで存在価値を確認する一面があります。一方で勝男は、自らの仕事や努力を「見えない努力」として誇りに思い、家庭内でも「言わなくてもわかってくれるだろう」という前近代的なコミュニケーションを無意識に採用します。
**「可視化された頑張り」を求める鮎美と、「察すること」**を求める勝男。このコミュニケーションのズレが、単なる家事分担を超えた、愛の根幹を揺るがす深刻な亀裂を生んでいます。
🔥 価値観の衝突が起こす、愛のパラダイムシフト(大転換)
このドラマの最も深いテーマは、「どちらかが正しい」と裁くことではない点にあります。
勝男と鮎美は、激しい衝突を経て、一度は関係を白紙に戻します。この「別れ」は、単なる破局ではなく、互いが自分の信じてきた「愛の形」を一度完全に**破壊(デストロイ)し、再構築(リビルド)**するための重要なプロセスとなります。
- 鮎美の成長:「誰かのために尽くすこと」でしか自分を肯定できなかった呪縛から脱し、「自分の幸せを自ら選ぶ」真の自立へと向かいます。
- 勝男の成長:「男はこうあるべき」という固執から、「人として、パートナーとして、どうあるべきか」という普遍的なテーマに目覚めます。初めて自分で料理をし、家事の大変さを知り、何より、鮎美への無償の感謝を言葉にすることの重要性を学びます。
「料理を作る・作らない」という日常の小さな行動が、最終的に「愛の再定義」=「私たちはどう生きたいか?」という、人生観レベルの問いへと昇華していく構造は、まさに秀逸な脚本の賜物と言えるでしょう。
🧂 「手抜きごはん」をめぐるリアルすぎるセリフが、視聴者の胸に突き刺さる
本作の脚本は、現代の家事分担や恋愛の機微を捉えた**「痛すぎる」セリフ**の応酬で、毎話のようにSNSでトレンド入りを果たしました。
「手抜きごはんって言うけど、私の一日は全部手抜きできないの。仕事も、通勤も、親の連絡も。」 「じゃあ、俺もレトルトで手抜きしていい?」 「いいよ。でも、その手抜きをする人への“感謝”は、絶対に忘れないで。」
このやり取りは、単なる家事負担の話ではなく、**「見えない労働(アンペイドワーク)」と「感謝の可視化」**という、現代のジェンダー課題の核心を突いています。料理という行為を通じて、観る者の生活に潜む「ジェンダーの溝」を、ドラマという鏡で映し出し、否応なく自己反省を促す力を持っています。
🌈 “対等に愛する”ことの難しさと、そこに見出す希望
ドラマ後半、2人は「恋人」という枠を超え、「一人の人間」として、互いの価値観を理解し、尊重し合う関係へと進化します。
このドラマは、単なるジェンダー論の押しつけで終わらせません。愛の再構築を、「好きだからこそ、自分の価値観を壊し、相手のために変わろうと思える」という、人間的な希望として描き切っています。
対等に愛することとは、家事を半分に分けることだけではありません。それは、**「互いの存在を、性別や役割ではなく、一人の人間として尊敬し、感謝を怠らない」**という、究極のコミュニケーションの実現なのです。
🍳 まとめ:愛の形が変わる瞬間を見逃すな
- 男女の役割を、最も身近な**「料理」**という行為を通して問い直す、リアルなラブストーリー。
- 価値観のギャップから生まれる痛みを、笑いと涙で包み込む秀逸な構成。
- **「尽くす愛」から「支え合う愛」**へ――現代社会が求める、真のパートナーシップの答えを提示。
『じゃあ、あんたが作ってみろよ』は、恋愛の価値観が根底から変わりゆく“今”だからこそ、すべての現代人に突き刺さるドラマです。見終わったあと、誰もが「自分も誰かに“こうあるべき”を押しつけてないか?」「今日のありがとうは、ちゃんと相手に伝わっているか?」と、ふと立ち止まらせてくれる、まさに令和の社会派ラブコメの金字塔と言えるでしょう。
対等な愛の形は、私たち自身の行動と意識の変革にかかっています。このドラマは、その変革への最初の一歩を踏み出す勇気をくれるはずです。

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